Listen Magazine特集

NEVER GET OLD

故デヴィッド・ボウイが実証主義、ホームグラウンドとしてのニューヨーク、復活、個性を発揮する余地、レコード会社のコミッティーが創造性に与えた打撃、お蔵入りになったナンバー、そして年齢を重ねることについて語る

インタビュー:ウェス・オーショスキー

 

死に至るまでの10年間、デヴィッド・ボウイは消えてしまったかのようでした。少なくとも私にはそのように感じられました。80年代にMTVを席巻した後、90年代にはティン・マシーン、ブライアン・イーノ、トレント・レズナーとのコラボレーションを通してイメージを刷新し、2000年代に入ってからも精力的にアーティスト活動を続けていましたが、2004年にライブの最中に心臓発作に襲われ、やむなくツアーを中断。それ以降はインタビューやメディアの出演依頼を拒み、ニューヨークでも有数の賑やかな界隈に住んでいながらパパラッチに姿を捉えられることも滅多になく、家族と共にひっそりとした生活を送りました。

ボウイが表舞台から姿を消しても、彼のファンは希望を捨てませんでした。そして、極秘に制作が進められた最後の2枚のアルバムがリリースされた時には歓喜の声があがりました。アルバムが発表されても、ボウイの動向はベールに包まれており、スーパーモデルの妻イマンに付き添ってファッション業界のイベントに出席した姿が時折カメラに捉えられる程度でした。それでも、彼がエリック・クラプトンのように復活し、ワールドツアーは無理としても、マディソン・スクエア・ガーデンやロンドンの O2アリーナでステージに戻ってくるだろうという望みはまだありました。もちろん、その望みが叶えられることはありませんでしたが。

2003年の時点では、ボウイはまだ表舞台で活躍していました。その年の8月、当時56歳の彼は最後のワールドツアーに備えて準備を進めていました。彼は、プロデューサーであり長年の盟友であるトニー・ヴィスコンティと共同でプロデュースした最新アルバム『リアリティ』(ISO /コロンビア)のプロモーションのため、熱心にインタビューを受けていました。その夏、私はニューヨーク州北部のマンハッタンから85マイル北にあるポキプシー(ボウイがアルバムを録音し、滞在していた場所からほど近いところ)のファンキーで古い劇場「チャンス」で、それまでほとんど行っていなかったツアーキックオフライブための忙しいリハーサル前に、幸運にも彼から少し話を聞くことができました。


 「とても興奮しているよ」と彼は当時私に語りました。「観客が300人くらいの、いわゆるシークレットライブなんだ。新曲のほとんどを試してみるつもりだ。だから何らかの手応えがあると思う」

ボウイは手応えを感じたのでしょうか。私はその夜、彼のライブを見ていましたが、彼が古ぼけた小さな劇場にふさわしいTシャツでショーのほとんどの時間、センターステージに立っていたことを覚えています。あれほど小さな会場で彼のパフォーマンスを間近で見るのは圧倒的な経験でした。音量が大きく、エントランスからすぐの所にステージがあったので、私はショーが始まってから終わるまで、すべての違和感を拭い去ることができませんでした。ライブからどの程度客観的な印象を得られたのか、そして、観客が新曲をどのように受け入れたかをボウイが理解できたかどうかは分かりません。ヒット曲はほとんど演奏されませんでしたが、観客はひどく興奮していて、彼はその熱狂の渦に巻き込まれていたからです。

その後2ヶ月も経たずにボウイは新しいアルバムをリリースし、最後のツアーに出発しました。以下は、彼が世界の舞台から消えて隠遁生活に入る前の2003年夏に行われた、未公開インタビューの全文です。

アルバム『リアリティ』の最初の曲、『ニュー・キラー・スター』にはバッテリー・パークが登場しますが、これは9.11同時多発テロに触発された作品ですね。
そのとおり。すべてのことが起こった町に実際に住むというというテーマを中心に展開する、印象に基づく作品だ。そこから、実証主義的な感覚を持つ何かを引き出そうとしているんだ。家族を持っているということ、しかも3歳の娘を持っているということが、このアルバムを貫く実証主義の源になっている。今後は出来る限り実証主義を試してそれを取り入れることが本当に大切なことだと思っている。僕は自分のことだけでなく娘のことも考えなければならないので、未来に関してネガティブな考えに耽ることに意味は無いんだ。

ニューヨークにはどれくらい住んでいますか?そして、ニューヨークに住むことはまだインスピレーションの源になっていますか?
そうだね。10年くらい前からここに住んだり、住まなかったりしていた。皮肉なことに、数えてみると故郷のロンドンを含め世界の他のどの都市よりもずっと長くニューヨークに住んでいるんだ。すごいだろう。何年もの間、1年か1年半単位でここに住んでいたが、ここ10年は素晴らしいことに、本当に僕のホームグラウンドになっている。僕がティーンエイジャーだった頃、ニューヨークはディランやアレン・ギンズバーグ、ビートニク、コーヒーバー、初期のロックミュージックを象徴する場所だった。ここ、特にダウンタウンやグリニッジ・ヴィレッジは憧れで、やってみたいことが沢山あった。いつかニューヨークに行くのが夢だった。そしてその夢の続きは、マンハッタンにアパートを持つというものなんだ (笑)。そして僕は今、ここにアパートを何棟も所有している。

私もアパートが欲しくて頑張っているところです。住まいはブルックリンにあるんですが。
ああ、ブルックリンもいいね。トニー・ヴィスコンティの出身地だ。

トニーと言えば、アルバム『ヒーザン』以降、あなた方2人は新たな次元に入ったような印象を受けます。今後もこういった形で活動を続けるのですか?
そうだね。僕たちが『ヒーザン』 (ISO /コロムビア]をリリースした時の繋りは、決して一時的なものではなかった。僕たちは本当に優れたものを作り出すだろうということが分かっていた。どんなものになるかはまったく分からなかったが、それでエンジンがかかったと思う。『リアリティ』では、僕たちがいつもそうしていたように、独特のサウンドと他の誰の作品とも違う面白い構成を生み出すことに全力を注いだ。それは紛れもなくボウイ/ヴィスコンティの作品であり、僕たちが一緒に仕事をすると特別なものが生まれるんだ。うまく表現するのは難しいんだが、僕たちが一緒に仕事をすると、誠実で面白い本当に良いものを生み出していると思う。本当に申し分なく、そして非常にエキサイティングだった。僕たちはすでに次のアルバムについて話し合っている。そして、僕はこのツアーを終わらせなければならない。僕たちがアルバムをリリースする時は常に「これは素晴らしい作品だ」と思っているが、レコーディング最終日にファイナルミックスを聴いてそれを判断する。そして、その時にお互いを見て、「これは本当に成功だ」と言うことが大切なんだ。ぶっちゃけた話、リリース後はどうなっても構わない。例えば、「ロウ」や「ヒーローズ」みたいなアルバムはそれほど売れなかった。つまり(笑)、あれらのアルバムは大ヒットにはならなかったが、ファイナルミックスを聴いた時に、いかに重要で素晴らしいか僕たちには分かった。「あれは一流の作品だった」と言える限り、後に起こることは言ってしまえば全部おまけみたいなものだ。

 

「最初のテイクでうまくいかなければ、僕はその曲をレコーディングするのを諦めてしまう」

 

仕事に対する情熱を新たにされたようですが、何かこれというきっかけはあったんですか?
そうだね。一緒にライブをしている現在のバンド(ベーシストのゲイル・アン・ドーシー、ドラマーのスターリング・キャンベル、ギタリストのアール・スリック、そして長年組んでいるピアニスト/キーボーディストのマイク・ガーソン)は熱い魂を持ったミュージシャンが集まっていて、スタジオでもステージでもうまくやっている。自分にとって物事が再びうまくいくようになってきたと感じたのが95、6年からだから、8年くらいになるかな。

ヴァージンからコロムビア・レコードへの移籍は、何か影響を与えましたか?
あるとすれば、ここ数年の間に感じていたぼんやりしていたことを固めることができたことだと思う。これはコロムビアにとっても、僕自身のレーベルであるISOにとってもいい状況だと思う。コロムビアは僕にかなり自由を認めてくれていて、レコーディングをしたいときにレコーディングをすることができる。そして、もっと重要なのは、レコーディングを完了すると、僕にリリースさせてくれることなんだ。書き上げた曲を1年半も寝かせておくことは、ソングライター、特に多作なソングライターにとって最も苛立たしいことだが、そういう悩みから解放された。僕はたくさん曲を書くんだが、新しい曲を書き始めると、先に書いた曲に興味と熱意を失ってしまうんだ。だから、曲を書き上げてじっと待っているなんて、我慢できないだろう...ヴァージンでは、新譜のリリースにゴーサインが出るまでひたすら待たなければならないという問題があった。ほとんどのレコード会社で同じ経験をしたよ(笑)。どこも似たようなものさ。 ビジネスの性質が根本的に変わったんだ。つまり、どのメジャーレーベルも、アルバムがリリースされるまでの販売期限を長く設定している。売り出し期限と言ってもいいかな。場合によっては販売期限だけど(笑)。とにかく、間違いなく売り出し期限があって、それは最低18ヶ月、時には2年以上になることもある。そして君は、レーベルのリリース予定表を見て、自分のアルバムがいつリリースされるのかチェックしなければならない。こういうスケジュールがずっと先まで続くことになるんだ。

あなたほどのアーティストでも、リリースに関して融通を利かせることができなかったというのは不思議ですね。
うん。それはコミッティーのせいなんだ。一般に、リリースの決定は会社のコミッティーによって下される。それが決まったやり方なんだ。最近では、個性的で独特なアーティストが活躍する余地はあまりないと思う。

昔はもっと簡単だった。産業と呼べるほどのものはなかったし、ハードウェアは揃っていたが、業界を支配していたのは数多くの熱狂的なアマチュアだった(笑)。 つまり、「カッコイイからそれ、やってみよう」という考え方なんだ(笑)。「マーケティングとフォーカスグループが、、、」なんていう言う奴はいなかった。「よし、やろう」、それだけだった。

あなたのソングライティングのプロセスについて少し教えてください。すべての作業は自宅で始まるのですか?
馬鹿げたことかも知れないが、僕はハイテクを駆使してイマジネーションを生み出すタイプではないんだ。でも、自宅では時折、ちょっとばかり工夫することもある。家には4トラックのローランドVS1680を持っていてマルチトラック録音をしているけど、ほとんどの場合、DATと紙の上に曲のコード進行を記録して、その上に声を重ねるんだ。僕はオリジナルの品質を失うことがとても怖い。『リアリティ』のデモはトニーと一緒にスタジオで録音した。ほとんど僕一人で作業して、トニーは僕が演奏するのを記録していただけだよ。そして出来上がったものは、ほぼオリジナルのデモのような感じだった。ほとんど差し替えをしなかったからね。キーボードが入り、トニーがそれにベースを加え、スターリング[・キャンベル]のドラムがギター・プレイヤーたちと一緒に入ってくる。そして僕はほとんどのトラックで自分のギターを弾いた。リズムトラックの大半に僕のギターが入っている。だから、ほとんどのトラックがデモみたいな感じで、エネルギーがあってすごくいいんだ。

ライブ的なエネルギーが感じられますね。
そのとおり。オリジナルのアイデアなんだ。二番煎じじゃない。僕たちは実のところファーストテイクで進めていく傾向がある。うまくいかない時は...何年か前にディランがインタビューで言ったことを参考にしている。彼は最初のテイクでうまくいかなければ、その曲を諦めると言った。そして、僕もそうしてしまう傾向がある。僕僕はそのような曲をいい感じに仕上げることは得意ではないんだ。そうやって仕上げた曲はこのアルバムにはひとつしかない。『ブリング・ミー・ザ・ディスコ・キング』だ。

お蔵入りになっている曲が沢山あるのではないですか?
そう! いっぱいあるよ。

何曲くらいありますか?番号は付けているんですか?
(ため息)いや、番号は付けていないよ。ファンからすべての曲をリリースしろと言われるからね。彼らに何度も説明しなければならない。「リリースしなかったのは理由があるからなんだ」(笑)とか、「サウンドが気に入らないんだ」(笑)とか。分かるだろう、「ねえ、ボウイ、レアな曲が沢山あるんだから、全部出しちゃえば?」みたいなノリさ。 「レアな曲にはそれなりの理由があるんだよ!」(笑)ってね。お蔵入りのままにしておくべき曲もある。でもそうだね、曲はたくさんあるよ。

「一般に、リリースの決定は会社のコミッティーによって下される。それが決まったやり方なんだ。最近では、個性的で独特なアーティストが活躍する余地はあまりないと思う」

『リアリティ』を締めくくるのは、8分弱の美しいナンバー『ブリング・ミー・ザ・ディスコ・キング』です。このナンバーには他のナンバーよりも苦労したというのは驚きではありません。聴くと分かります。
これほど曲折を経たナンバーは他にはない。結婚した92年に書いたこの曲はシニカルに過去に別れを告げるもので、ディスコ調の本当にアップテンポな曲だった。つまり、音のミラーボールさ(笑)。本当にディスコミュージックみたいだったよ。シンセドラムが使われていて、よくできていた。クセのあるサウンドを想定して書いたんだが、実際にクセのあるサウンドだった。だから、僕は放っておいたんだ。90年代半ばに、ギタリストのリーヴス・ガブレルズと再び組んで、この曲に別のアプローチを試みた。しかし、それにはやはりかなり強いエネルギーが必要で、うまくいかなかったので断念した。そして今回、三度目の正直でもう一度トライしようと思ったんだ。まず余分なものを削ぎ落として、曲の本質を浮かび上がらせることから始めることにした。そして、その後テンポを遅くすると、突然それ以上何もする必要がないことが分かった。アレンジも必要なかった。僕のボーカルに対するピアニストのマイク・ガーソンの解釈だけが必要だった。それで終わりだ。本当に納得にいくものに仕上がって、もはやシニカルな曲ではなく、かなり心のこもった曲になった。

この新しいデジタル時代では、すべてのアーティストにとってツアーはますます重要になっているように思えますが、デビューから40年経った今でも、ツアーは楽しいですか?
まずひとつ目に、ツアーは楽しいよ。それは僕にとって一番大事なことなんだ。そしてニつ目に、観客動員数が増え続けているのは素晴らしいことだ。この業界で沢山の若いファンを持っているということはすごく幸運だと思っている。ここ8年かそこら、ナイン・インチ・ネイルのトレント・レズナー、プラシーボ、スマッシング・パンプキンズといった連中が、自分たちの活動に関連して僕の作品について語ったことが観客を引き寄せている。沢山の若い子たちが僕たちのやっていることを見に来るんだ。すごいことだよ。

「ああ、僕は30歳になってまで生きているつもりはない」と思うんだ(笑)。なってみるとやっぱり恐ろしいね(大笑)」

そうすると、年を取るということと無縁のように見えるあなたが、新しいアルバムに『ネバー・ゲット・オールド』というナンバーを入れているのは皮肉ですね。
(笑)まあ、今この時代を生きていることに満足している。それが一番ふさわしい表現だと思う。僕の結婚生活、家庭生活、私生活――何と呼んでくれても構わないが――は素晴らしく、仕事も順調だった。だからその意味では僕は本当に幸運な男だよね。20代のころ、自分の人生が実際にこんなに素晴らしいものになるとは夢にも思わなかった。20歳の時には、今の年齢になることは考えられなかった。「56歳? 冗談だろう?絶対にそんな年まで生きないよ」ってね。ティーンエイジャーにありがちな、ロマンチックで虚無的な夢さ。「ああ、僕は30歳になってまで生きているつもりはない」と思うんだ(笑)。なってみるとやっぱり恐ろしいね(大笑)。



 

この記事はSteinway& Sonsが出版する受賞歴のある季刊誌「Listen:Life with Music & Culture」に掲載されたものです。定期購読のお申込みはこちら(英語)をクリックしてください。

 

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